「多摩川園駅を知る世代」(1973年“昭和48年”に生まれて その2)

人それぞれ・・・って誰かが言ってた

そんな“捉え方”、“解釈”という点で、
個人的に思い浮ぶのが、
竹内まりや作詞作曲『駅』の誕生エピソード。
もともとこの曲は、中森明菜への提供曲だったのだが、
中森明菜『駅』に施されたアレンジと、
歌い手中森明菜が『駅』へ込めた歌唱表現が、
提供者竹内まりやが意図する世界観に対して、
ズレが生じているのでは?と山下達郎が苦言を呈した。

当時31歳だった竹内まりやが、“中森明菜”という人物像をじっくり想定ししたためた、切ない大人のラブソング『駅』。その『駅』と向き合った中森明菜は当時21歳。16歳でデビューし、松田聖子と双璧をなすトップアイドルシンガーとしての確固たる地位を確立していた。

ささやきかける低音域を活かし、別れた恋人をそっと遠目で見守り、まだ彼への未練が覆っているかのような中森明菜の『駅』。それに対し、竹内まりやがセルフカバーした、山下達郎アレンジによる『駅』は、苦い過去から脱却しようと心に秘めた、清々しい力強さが感じられる、っと両曲に対して、こう捉えている自分がいる。

“明菜ちゃんからの依頼があったからこそこの曲が誕生した”と、竹内まりやは振り返えられているが、31歳と21歳の“歳の差”によるリリックの捉え方や表現力、そして時代の流行を踏まえた商業的目線による、制作側の歌唱指導や編曲の施しは、音楽ビジネスの難しさを物語っている。

これは、与えられた原稿に向き合うナレーターにとっても同様。ベテランナレーターのように読もうと、声色を真似てみても、所詮上っ面なコピーにすぎず、努力や技術では補えない、経験値に裏付けされた深みある表現力は出せないし、流行に乗っ取ったナレーション読みを、指示または要求されれば、我々は従わなければならない。

ナレーションは番組が放送されてしまえば消えてゆく。それに対して音楽は、盤となり心に残るということだが、いまや放送された番組がアーカイブ化され再視聴出来るようになり、サブスクの普及により、“手に取る音楽”が消えかけているではないか。

需要と供給の変化をその都度捉えた“ダイナミックプライシング”が、モノ消費からコト消費を優先する時代へ移行させている。歌手やナレーターたち”発信者”は、この状況を勝機と捉えるか?それとも寂しい時代と解釈せねばならないのか。

車窓・・・スマホばかり見ないで

さて、竹内まりやが綴った“駅”の舞台は、
当時の東急東横線の渋谷駅なんだそうだ。
各駅の発車と到着、急行の発車と到着、四つの線路が高架上に広がる巨大ステーションだったあの頃だ。奇しくも東横線沿線で一人暮らしの学生時代だったので、その頃の渋谷駅は思い出深く、沿線でバイトもしたし、寝過ごして桜木町駅まで行ってしまったこと、そして恋愛もして失恋もし、少なからず竹内まりや『駅』の真意に近づけられると思っている。

この歳になってあの頃をノスタルジックに振り返ってみても、中森明菜版よりも、竹内まりや版のほうが、我が東横線思い出の回想シーンを演出してくれる気がする。

いまの東急東横線は、渋谷駅、代官山駅、田園調布駅、日吉駅、反町駅、横浜駅が地下の駅となってしまった。季節の移ろいが感じられない、無機質な地下駅の車窓が続く通学だったら、物悲しく歌った中森明菜版がしっくり来る思い出になったのかも知れない。それだけ、竹内まりや版は、祐天寺駅から都立大学前駅の車窓や、ホーム近くにトンネルがあった代官山駅や反町駅などの情景が思い浮かぶ。これが山下達郎マジックなのかも知れない。

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